チャズ・ボヨーケズは本物の自己表現はソウルからもたらされると信じて疑わない。少年時代のチャズは1950年代に、ロスアンゼルス東部のメキシコ系アメリカ人の伝統的なグラフィティーに囲まれて育った。ロスアンゼルスの“チョロ”スタイルのグラフィティーは伝統的で名誉あるライティング・コードによって描き綴られ、忠実に伝統的なライティング・コードを受け継いだことにより、それは周囲から尊重されることとなる。
1968年に一般教養と数学の課程を取得して高等学校を卒業し、州立のカレッジにて1年間を過ごしたチャズは、その後クイナード・アート・スクール(現在はカル・アーツとして知られている)へと入学する。チャズはまたアジアのカリグラフィーをユン・チャン・チアン(チアン氏は中国最後の皇帝の弟であるプー・ユーの下で学んだ人物である)を師匠として学んだ。これらの経験を活かし、彼は1969年に伝統的で名誉あるコロ・ギャング・グラフィティー、アート・スクールでの学問、そしてアジアのカリグラフィーに存在するスピリチュアルなスキル、この3つをミックスして独自の作品を生みだした。チャズはロスアンゼルスから出でた最初のグラフィティー・ライターの一人であり、彼は独自のスタイルを確立した。1970年代と80年代の初頭、10年以上にも亘ってストリートに独自の作品を描き綴った後、彼は「何の為にグラフィティーを描くのか?」をより深く理解しなければならないこととなる。
1975年にはイタリアの写真家であるグスマノ・セサレッティーがストリート・ライター達に向けてチャズのインタビューを行い、それは1970年代初頭のロスアンゼルス東部のグラフィティーをあらわした貴重な記録であり、それはチカーノ(メキシコ系米国人)のカルチャーを記した先駆的な書物となった。
1979年から3年間に亘ってチャズは計35カ国に及ぶ世界旅行へと旅立ち、それらの国々を訪問、或いは実際に居住するなどしてグラフィックや文字が、如何に各々の文化を表すのかを肌で感じることとなる。
こんにちチャズ・ボヨーケズが描くグラフィティー・アートは、自身への問いかけをより深めていっている。
グラフィティーに意思はあるのか?
その目的は何か?
文化的アイデンティティーとは?
歴史はどうなのか?
統一性はあるのか?
といったことへの探求である。パブリック・スペースは誰のためのもので、そこでの表現と意思表示の権利は誰にあるのだろうか?これらの普遍的な疑問の答えは、千差万別ながらも我々全ての者に宿っているのである。 |